熱烈なファンというわけではないが、村上春樹の作品は、ほぼ読んでいる。違う時空に入っていくような独特の感覚が癖になる。
その村上春樹のおすすめのエッセイがこれ。
『走ることについて語るときに僕の語ること』
自分にとっての『走ること〜』
走ることについての個人的メモワールだと作者は言っている。僕にとっては、走り始めることの遠因になってるように思うし、モチベーションの維持にもつながっているようにも思う。
著者の淡々とした筆致が心地よく、読むたびに気づきがあり、滋味に富んでいる。僕にとっては間違いなく名著。
この本の一節をもとに自分の走る理由を考えてみたい。
「どうして走るの?」
そう聞かれると、「うーん、やせるし、健康にいいし、ビールがうまいし…」と、どうもしっくりこないまま、たいていあやふやな回答をする。自分でもよく認識していない部分が多いのだと思う。
この本では、こう言っている。
走り終えて自分に誇り(あるいは誇りに似たもの)が持てるかどうか、それが長距離ランナーにとっての大事な基準になる。
『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹
同じことが仕事についても言える。小説家という職業にー(中略)書いた物が自分の設定した基準に到達できているかどうかが何よりも大事になってくるし、それは簡単には言い訳のきかないことだ。(中略)走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。
私的に解釈してみる
自分なりに解釈してみると、目標を設定して進むことは、時に苦しい。それでも妥協せずに取り組み、終わった後に最善を尽くしたと自分が確信できるか、つまり「誇り」を持てるかどうかが最も大事。それは、走ること、書くことと共通している。だから、走ることは、書くことのメタファーなのだ。
著者のいいたいのは、こんなことではないかと思う。
自分にとって「走る」を考えてみる
メタファーは、「〜のようだ」という表現を使わずに、ある物を別の物に例えること。
著者のいう「書く」は「生きる」という意味にもとれる。すると、「走る」は「生きる」のメタファーだとも言える。
ただ、「走る」と「生きる」では、大きく違う点がある。「走る」は、やればやっただけ結果(タイム)が出る。一方「生きる」の方は単純ではない。仕事でもなんでも、やっても結果に結びつくかどうかはわからない。
だけど、やらなければ、確実に結果はでない、という点では完全に共通している。それで、やれば結果が出る(走る)という成功モデルをイメージしつつ、一方で結果が出るかわからないこと(生きる)に挑み続ける。成功モデルを強化し、挑み続けるために、走り続ける、そういうことではないだろうか。
ずいぶんくどく考えてしまった…。それでも結論までくると、イメージに近い気もするが、それだけではない気がする。走る理由の一端ではあると思うのだが。
また、あらためて考えてみよう。
いいたいのは、このエッセイの中には、そんな思索の入り口がたくさんある。だから、何度読んでも飽きない。まだまだ語り足りないので、またどこかで記そう。ぜひご一読を。